六韜 二巡目 『 目指すは簒奪併呑』 第25回 「武韜6、文啓篇3、聖人の徳、サイクルに従い最後は変える」


六韜の二巡目、始めました。
まずは現在は二つ目の武韜に入っております。

『六韜』二巡目
25回
武韜6 文啓篇3


今回も前回の続き、
文啓篇の三回目となります。
コチラの篇は今回が最後となります。

前々回が自然な情報戦の仕掛け方の話になり、
前回が古代から中世にかけての大陸中華統一のセオリーと悪手のお話で。
そして今回は、
それまでの内容のおさらいかつハイブリッド。

文啓篇3 抜粋1・・・
・・・・・・
聖人はこれを静かにせんと務(つと)め、
賢人はこれを正(ただ)さんと務め、
愚人(ぐじん)は正しくすること能(あた)わず。
(ゆえ)に人と争う。
・・・・・・
聖人は天下を静穏にしようとする、
賢人は天下を正しい方向に導こうとする。
愚か者は正しい方向に導くことすらできないゆえに人と争うことになる。

コチラ↑の文については、
前回の「大失」の前にあった文ですが、
その後の続きから位置が唐突でもありましたのが、
前回は勝手にカットいたしましたスンマセン!

文内の「これ」についてはそのまんま天下のことを指すとされながら、
前の文の「大紀」「大定」の文脈からすれば、
天下を構成する人民という意味合いも強く、
食物や資源の恵みをもたらす大地や天候や四季という意味と、
生産・製造を行う人民という意味を合わせての「天下」

そして、
ココに言われる六韜の聖人は、
老子式の聖人に近く老子式の道にも精通しながらそこまで老子式の「道」にこだわるわけでもない、
単純にスンゴイ能力を持った人物のこと。
さらにそこに最上位に立つ統治者という意味合いがプラスされているとされ、
言ってしまえば王様。

聖人は天下を静かにする、
というのも、
大地・天候・四季というサイクルの中で、
人民が無理なく生業に専念できるようにする。
それが「静」であり、
さらに天下を手に入れる時も、
文啓篇1のように天下の構造に従って自然な形での情報戦を仕掛ける。

そして、
賢人はと言えば「天下を正しくする」、
正しい方向を示してそれに全てを従わせようとする。
これは実情なんざ関係ねエという儒学に近い考え方であり、
自然の在り方や民衆が直面している実情に関係なく、
トップが必要とするものを用意するために民衆はひたすら振り回されることになる。
コチラは現代においては当然の考えともされますが、
六韜が前提にしているのが古代から中世の大陸中華ということもあり、
人間の持つ生産・製造能力は大自然の驚異の前にほぼ無力、
マッキンダー卿の言葉を借りるならまだ自然の力が遥かに強かった時代。
そんな状態で自分の正しさを最優先することはあまりにもリスクがある統治方針だということになり。
これが敵の打倒にまで拡大すれば、
正しいことが何なのかを自分で断定するというあたり、
情報戦についても戦争についても自分が正しい、相手が悪い、だから自分に従えとして、
まあ反発だらけとなって騒動が大きくなる。
しかも相手もコチラも自分の正しさを真正面から主張し合うために、
六韜の常套戦略となる情報戦による大部分の決着を放棄したも同然。
勝つか負けるか五分五分どころか大敵に仕掛けるのなら負けの可能性が高い。

そして「愚人」
天下の構造や在り方に従うことも出来ず、
正しさすらも主張できないという辺り、
これは自身の利益を優先するということで、
自然な形に乗って甘い汁を吸うことも出来ず、
力によって利益を無理に得ようとする。
そりゃあ争ってばかりだということになり。

この後に続く前回の文啓篇2「大失」の文とつながることを考えると、
良きにしろ悪しきにしろ思い通りにやろうとすると、
刑罰連発で人材、人民も離れて生産・製造も停止していくとなり・・・。

そこで、
文王は改めて質問をし、
「これを静かにするは奈何(いかん)」。
静かにするということは、
聖人のやり方を実践しようとすることで、
儒学によって聖人認定される文王というキャラとしてはソチラの質問をするのは当然とも言えて。

文啓篇3 抜粋2・・・
太公(たいこう)(いわ)く、
「天に常形(じょうけい)あり、
 民に常生(じょうせい)あり、
 天下とその生(せい)を共(とも)にして天下 静かなり。
・・・・・・
天には常にかたどる構造があり、
民には常に生きるに必要な物があり、
天下の構造と民衆の生活を共存させることで天下は静穏となる。

文啓篇1でカットしてしまいましたが、
天には気候や気象や生産についてサイクルがあり、
民もまたそのサイクルに合わせて生きるに必要な物がある。

聖人というのはそういった構造と流れによるサイクルをよく知り、
天下の構造と大地・気候・四季に人民を合わせていく・・・。
それが静穏であり、
サイクルに合わせて目的を自然な形で無理なく達成しようとする。

文啓篇3 抜粋3・・・
・・・・・・
太上(たいじょう)はこれに因(よ)り、
その次はこれを化(か)す。
それ民 化(か)して政に従う。
ここを以(もっ)て天は為す無くして事(こと)を成(な)し、
民は与うる無くして自(おのず)から富(と)む。
これ聖人の徳なり。
・・・・・・
最も良いのは天下の構造に従うことであり、
次に良いの民を変えようとすること。
民を王に従うよう変化させ王の政治に従わせる。
そうなれば天の意志に関係なく王は事を成立させ、
民は王から与えられることがなくとも自然と富をたくわえていく。
これが聖人の徳である。

そういったサイクルに合わせるのが一番とはいえ、
全てが全てそこまで出来るとは限らず、
文啓篇1にあったように自然と全てが手に入るように演出するのが理想ということにしても、
最後の最後ではどうしてもセレモニーとしての軍事行動が必要になり、
民を政治に従うようにするという究極形こそが民で形成される軍隊。

平時から民を政治に従わせるようにし、
戦時にあっては軍隊を形成できるようにする。
前回の「大紀」「大定」はそれを「家」という各地の有力者に分担させることでもあり、
いざという時に各地方の事情の異なる人々を軍という共通の場所に動員することでもあり、
天下を形成する人民を味方につけなおかつ王の指示通りに動く軍隊によって、
王は天下を手に入れる。

後は王が天下を手に入れた後に調子にのって国務篇で語られるような注意点をやらかさず、
貢献してくれた人間達への支払いや地位の割り当てをやり、
引き続き天下の構造に従い続け文系篇2の「大失」なんてやらかすことがなければ、
民は多くを取られることなく富を蓄えていくことが出来る・・・。


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