六韜 二巡目 『 目指すは簒奪併呑』 第24回 「武韜5、文啓篇2、中世中華君主の統治セオリーと悪手」


六韜の二巡目、始めました。
まずは現在は二つ目の武韜に入っております。

『六韜』二巡目
24回
武韜5 文啓篇2


前回に続きまして文啓篇の続きとなりす。

自然とかつ向こうから集まってくるかのように全てを手に入れるのが六韜内の聖人。
しかし、
その裏には情報戦による工作があるというのが六韜の前提で、
その工作を気付かれずに行うためには、
世界の構造と流れを把握してその流れに乗るように自然な形で行わないといけない。
その構造から流れ、工作の手法、果てはネットワークまで、
絶対に人には知られないようにする・・・。
それをものすごく分かりにくい文章で表現していたのが前回の該当箇所。

今回はその内容から一転、
統治のセオリーと統治者がついやってしまう悪手のお話。

まずは統治者が作る国家構造。
後の歴代統一中華王朝の国家に受け継がれると言われるもので。
ここに言われる統治のセオリーは、
どこまで統治の範囲に入れるかにかかっている、
ということで。

文啓篇1 抜粋3・・・
・・・・・・
(いにしえ)の聖人は、
人を聚(あつ)めて家と為(な)し、
家を聚めて国と為し、
国を聚めて天下と為し、
賢人(けんじん)を分封(ぶんぽう)して以(もっ)て万国(ばんこく)と為す。
これを命(なづ)けて大紀(たいき)と曰(い)う。
・・・・・・
大昔の聖人は人を集めて家とし、
家を集めて国を形成し、
国を糾合して天下とし、
優秀な人材に各地を管理させてたくさんの全てを統治した。
これを大いなる紀(のり)と呼ぶ。

国家と社会の最小単位を「家」とする・・・。
日本でもたまに言われることがあるようなことですが、
それとは全く違うスケールなのが中華であり上の「家」で。

大陸中華の古代から中世中期までの「家」というと、
一つの地域まるごとほとんど同じ名字というレベルの巨大な一族(宗族)のことで、
その地域の実質的な支配者も同然。
生産・製造の大部分を独占し、他地域との流通もそれなりにグリップしてる。
いわばこの「家」が王朝上層から見た統治範囲の横の限界線(紀)を示し。

人を集めて家となし、
というあたりは、
統治者がどこそこをまとめるのはどの一族、
ということをそれなりに指定することでもあれば、
従来から定住する一族に定住と管理を認めることでもあれば、
王様に貢献したある一族にどこそこを与えるということでもあり。

その時に一緒に「家」としての氏を与えるということが古代からあったとされ、
それが宗族という呼び名で今にも伝わったりで、
王朝内の権力争いの大部分がこの宗族を基準に見ることが出来るという論もあり・・・。

六韜の舞台設定となる殷周戦争でも、
決着がついた後の殷の王族の生き残りについては周の武王が宋という地の定住管理を認めたことで宋氏となったとされ、
そのように土地ごとに名を与えてそこら一帯の一族に名を与えたり、
あるいは元からそこにいる人々にはそれ以後の居住を認めたりと、
この巨大な各地の一族としての「家」が基本的に王朝の統治組織が認識する具体的な「民」のギリギリの枠とされ、
これよりも小さな存在については統治組織としての認識の範疇外という暗黙の了解があったとも言われ。

さらにその有力氏族である家をたくさんまとめて国とし、
その国々をまとめて天下とする。

「国」が有力氏族の集合体という認識しかなかったのがこれまた枠を分かりにくくしており、
国の集合体である天下をまとめあげるのが王朝ながら、
王朝の権限が全ての地域に直接深く及ぶわけではない、
という辺りがが西洋式の国家観と大分違い、
帝国と呼ぶことがあっても連邦制に近かったり、
連邦制と見るにしても統治組織が強固にないなど、
中世のあやふやな枠のまんま近代に突入して結果的に外部からの圧の前にロクに整理されてないまんま放置されていた混沌とした各地域の実情が露呈したりで。

とりあえず「国」という認識が確固とした枠ではない上に、
有力氏族の集合体であるという認識のまま、
それぞれの国あるいは複数の国をまとめて、
王朝のために活躍した人間達に与えていく・・・。
六韜の舞台設定たる殷周戦争の後では、
裏の仕事を取りまとめた太公望が斉国に封じられ、
表の仕事を取りまとめた周公旦が魯国に封じられ、
ということがあり、
後に初の中華統一をやらかす秦もまた、
その建国の人間にまでさかのぼっていくと、
周の王の警護役をやっていた騎馬民族が西の地を与えられて氏と国を名乗るようになったとされ・・・。

氏と国を与える、
それが王朝の最外縁を決める手法。
ちなみに、
歴代統一王朝にあっては、
こうやって国を与えた人物に反乱を誘発させて鎮圧した後に改めて自分達の統治地域とする、
というのが定番の流れだったりし・・・。

文啓篇1 抜粋4・・・
・・・・・・
その政教(せいきょう)を陳(の)べ、
その民俗(みんぞく)に順(したが)い、
群曲(ぐんきょく)、直(ちょく)と化(か)し、形容(けいよう)を変ず。
万国 通ぜざれども、
(おのおの)その所を楽しみ、
人 その上を愛す。
これを命(なづ)けて大定(たいてい)と曰(い)う。
・・・・・・
王の政と教えを広げ、
地域の民衆ごとにある習俗に従い、
全く違う大群をまっすぐに見えるようにして受ける印象を変え、
全ての地域に通用するものがなくとも、
各地域それぞれぞれがそれぞれにしかないものを楽しみ、
全ての民衆が上に立つ統治者を敬愛する。
これを大いなる定と呼ぶ。

日本では「政教」と言えば「政教分離」のことで、
政治と宗教の切り離しという西洋式近代政治の大前提となりますが、
ココに言われる「政教」はモチロンそんな話ではなく、
中華の王様が天下を統治する時の考えで、
ココに言われる「王」は中華文化圏全土の統一者・・・皇帝レベルの存在。
六韜内の部隊設定の殷周戦争の時代だから「王」だから王としか言いようがないのが面倒なところで。
中華統一王朝での大原則が、
君臨するけど統治は一部、
という中途半端なもの。
上の「大紀」が民衆へのギリギリのグリップたる最小単位を地域の支配者としての「家」有力氏族や宗族としていたように、
上の「大定」にあっては、
地方の深いところのやり方については原則ノータッチということが語られ。
いわばそれが王朝がどこまで深く入り込もうとするかという縦の限界線(定)を示す。

とりあえず地方の習俗は認める、
それなりに集団や地域としてのルールも認める。
その代わり、
そういったバラバラの集合体「群曲」という形をそのままでは認めずに、
「形容を変ず」見た感じは王朝の支配下にあり王朝のために存在するという形にする。
あくまで形のほうを重視することになり、
「万国に通ぜず」全てが同じようになる必要はなく、
それぞれの地域が円満にまとまればよい。
バラバラな地域の中身までは矯正しようとせず、
一つの王朝のためのように見えるようにする。
あくまで形式の上では王朝の支配者たる王様や皇帝を尊いものとして仰ぎ見てもらう。

この世に存在する物は矯正することなくその特性を生かした「樸(あらき)」として使うのがよい、
とする老子式の思想と、
支配者を君子として常識をはじめ全てのことを決める絶対の存在と見る儒学の論語から既に始まる忠孝原則の、
いいとこどりの国家観、
そして限り無く投げやり感満々の統治。

そういった体制の下で生きる一人の人間の感覚からすれば、
皇帝というのは絶対的な権力を持つ恐ろしい支配者ではなく、
メッチャ遠くにいるぼんやりとした存在になり、
儒学を学んだちょっと偉そうな人の話をちょいちょい耳にしては、
皇帝エライという気持ちになりつつ、
生活に密着していた老子荘子の道教思想でもってそこまででもないと内心では思う、
王朝側としてはそれが思い切り吹聴されたり反乱にでもならない限りは別にどうでもいい。

地方の特性について口を出さない、
という点については、
初の統一王朝たる「秦」がそれまであった国々を完全に粉砕して、
同時に各地方のやり方や事情を完全に無視する形で完全画一的に統治していこうとしたら、
始皇帝が死んですぐに不満が爆発してごく短期間で急速分裂したということがあり、
アレが歴代統一王朝のトラウマであって、
地方の細かいところにまで王朝は口を出さない、
という原則となり、
仮に地方で反乱があっても主謀者や上部構造はぶっ潰しても、
下部にあたる民衆の生活までは出来るものなら手を出さない・・・。

あんまり細かいところに口を出さない、
君臨するけども全てが全て思い通りに動かせるわけじゃない。
これが中華の統治原則。
軍隊を使っての徹底かつ強引に従わせるのは例外中の例外。
それをやると予算やら結果によっては王朝の寿命を短くする・・・。
それでも強引にやろうとすると国が崩壊する・・・。

文啓篇1 抜粋5・・・
・・・・・・
(かみ) 弄すれば則(すなわ)ち刑(けい)(しげ)く、
(けい)(しげ)ければ則(すなわ)ち民 憂(うれ)う、
民 憂(うれ)うれば則ち流亡(るぼう)し、
上下 その生(せい)に安(やす)んぜず、
累世(るいせい)休まず。
これを命(なづ)けて大失(たいしつ)と曰(い)う。
・・・・・・
統治者があれこれと細かいところまでやろうとしたら刑罰が頻繁に実行されることになるだろう。
刑罰が頻繁に実行されれば民衆は生活に心配を覚え、
民衆が生活を心配すれば土地を捨て流れていき、
統治者も民衆も安心して生活できず、
世の事全てが不安定となっていく。
こういった状態を大いなる損失と呼ぶ。

細かいことまでアレコレ、
というのは、
行政面での細かいところまで、
という意味も含まれれば、
大紀大定の文脈からでは事情を知らずに~」という意味のほうが強まり、
「大紀」という民衆の上部しか見ないという原則からすれば、
事情を知らぬ統治組織が生活面まで細かいところに口を出していてトンチンカンな規制をかければ生活が大変になり、
「大定」という地方の事情に深入りしないという原則からすれば、
地方ごとの事情を完全に無視した規制を大量に作れば地方に不満がたまる。

だいたいこまかいところまで上が決めたがる分野と言えば税の取り立てだったりもするので、
その規制が強くなり過ぎれば人々が生活が出来ないとして別の土地へと流れていく・・・。
中華圏が分裂している時なら他国へ流れるものの、
統一されていたら都市部へと向かったり、
あるいは宗教結社に吸収されたり、
盗賊となってしまったりで、
ただでさえあやふやな側面のある統治のうち弱い側面ばかりが目立っていき大変なことになってしまう・・・。
まさに大いなる損失。
生真面目で勤勉な王であればあるほどに損害がデカイというのはなんとも皮肉のきいたややこしいところ。

細かいところまでやろうとしてパンクするように失敗したとされるのが、
やはり代表格では初の統一王朝である「秦」であり、
六韜の成立ギリギリとなると三国志の孔明があたったりで、
後の明王朝では成功したことになってるものの、
名君の治世が極端に短いといういろいろと無理があったとされ・・・。

広すぎるというか遠すぎるがゆえに、
自治権を持たせたら即暴走独立という事情が中華にあり、
それを防ぎながら統一王朝という巨大な体面を維持するなら、
深入りしないというのが中世初期の原則で。

コレが科挙という統一的な内容の試験でもって高級役人を採用していくようになると、
官僚組織が徐々に拡大して地方に統治官として派遣されていくにつれて、
中華という一体感が本物になっていくかのようになっていくとされながら、
六韜の成立段階ではまだ科挙の確立は程遠く・・・。


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