六韜 二巡目 『 目指すは簒奪併呑』 第20回 「武韜1、発啓篇1、旗揚げのタイミングと人集めの注意点」


六韜の二巡目、始めました。
まずは現在は二つ目の武韜に入っております。

『六韜』二巡目
20回
武韜1 発啓篇1


今回から六韜の二つ目の「韜」であります、
武韜に入ります。
話は徐々に戦場や実戦・・・、
六韜の舞台設定を辿るなら、
殷をぶっ壊すための具体的な話に近づいていく・・・。

今回からしばらくやります武韜内の最初の篇たる発啓篇、
内容としましては文韜最初の篇であります文師篇の仁・徳・義・道のおさらいのような内容ともなります。
文王・武王と太公望の問答形式は変わりません。

文王の嘆きのような問いから始まる発啓篇。
「殷の紂王が好き放題やりまくって罪無き人々を虐殺している、
 どうやったら民に寄り添えるのか!」
という、
儒学において聖人認定されている仁君名高き文王らしい義憤。
殷の紂王に対して妲己を放って暴政を誘導させたことはモチロン触れない。
文王とともに殷を内部から崩壊させる太公望もまたそこに触れるわけもなし。

ということで、
文王の表の義憤をなだめるような太公望の返答の一部がコチラ。

発啓篇1 抜粋1・・・
太公(たいこう)(いわ)く、
「王 それ徳を修(おさ)めて以(もっ)て賢(けん)に下(くだ)り、
 民を恵(めぐ)みて以て天道(てんどう)を観る。
 天道 殃(わざわい)(な)くば、先(ま)ず倡(とな)うべからず。
 人道(じんどう)(わざわい)無くば、先(ま)ず謀(はか)るべからず。
 必ず天道を見、また人災(じんさい)を見て、
 乃(すなわ)ち以(もっ)て謀(はか)るべし。
・・・・・・
王様というのは徳を修めて賢者に教えを仰ぎ、
人民に生活の保証という恩恵を与えて天道を見る。
天道による災いが無い限りは王の打倒を口にしてはならず、
人道に災いがなければ王打倒のための工作をしてはならない。
必ず天道と人災をよく見て、
両方に災いがある時に工作を開始しなくてはならない。

ココに言われる「徳」は、
道徳的な意味合いでも文師篇の徳でも、
どちらでも通るなあって。

「天道」と言われると、
日本では「おてんとさまは見ている」と言われるように人にとっての正しい行いを認定する道徳的な意味合いがありますが、
ココに言われる「天道」は自然現象全般のことで、
「天殃(てんおう)というのは上の文の読みのままに自然災害のことで。
大陸中華においては三皇五帝の神話の流れから、
人の王というのは天から統治を委託された存在で、
天災というのは王様が天から落第点を付けられており次の王が求められている。
というロジックが中華においては古代から通用するところでして、
中世に入っては儒学がそれに思い切り肉付けをしまくり暗示めいた意味合いすら持たせ・・・。
なので、
王朝打倒を目指す勢力にとっては深刻な天災が連発した年はまさに天の時、
平時にはかなり無理がある宣伝戦略もガンガン決まる時期でもあり、
大陸中華史にあっては天災続きの時には宗教結社が急激に拡大して王朝でも手が付けられなくなるのが定番で。

その天災で人々が苦しんでる時に王様が、
「人道の殃(わざわい)・・・人道にもとる行為を連発して、
圧政でもって民衆の生活を脅かすに至れば、
王朝打倒のための工作を開始できる。
具体的な理由を言えば、
同調してくれる味方が増えるから。

王朝の政策が民衆の生活を保証し続けるなら、
民衆は少なくともニュートラルな存在。
王朝を命がけで守ることはしなくても密告をやることについても特に心理的ハードルはなく、
王朝打倒勢力にとっては監視網に囲まれているような状態。
それが天災連続・失政圧政でもって民衆の中に王朝への反感が広まれば、
打倒勢力にとっては監視網の真ん中から一転して潜在的な仲間に囲まれた状態に変わる。
この辺りはマキャベリの君主論内で、
君主は善政を行い民衆を味方につけるべし、
という説明のためのロジックと非常に似通っております。

とはいえ、
情報戦による敵組織の内部崩壊を重視する六韜、
沢山の味方が動員される武力反乱は最後の最後、
勝利が確定してから始めるセレモニー。

敵体制を崩壊させる謀略にあっては、
よほど信頼できる人間でないと誘えず、
敵の切り崩しや敵のスパイも警戒しないといけない。
なので、
どういう人間なら信頼できるかを見ないといけない。
人物鑑定の方法としては・・・。

発啓篇1 抜粋2・・・
・・・・・・
必ずその陽(よう)を見、
またその陰(いん)を見、
(すなわ)ちその心を知る。
必ずその外を見、
またその内を見、
(すなわ)ちその意を知る。
必ずその疏(そ)を見、
またその親(しん)を見、
(すなわ)ちその情を知る。
・・・・・・
内心を知るなら必ずその人間の見える所と見えないところを見、
意向を知るなら必ずその行動と心理の動揺を見、
人情の有無を知るならその人間がいかなる人間と距離をとりいかなる人間と親密にしているかを見る。

その人間が信頼できる人間か否かについてよく知るために、
見えないところを見る、
具体的には評判とは違うところを探す・・・。
これは時間も手間もかかる人間観察ですが、
儒学者を利用する場合はそれなりに楽でもあり、
論語内の原則から同レベルの似た者同士でしか親交を持たないことになってるので、
コチラに性格が分かりきったのが一人いて、
そいつがろくでもなければ避けるべき人間のリストが出来上がり、
善い人物なら切り崩し候補のリストが出来上がる・・・。

最も重要な点は、
孫子三巡目でもあったように、
スパイとして利用した人物は容易にダブルスパイにもなるので、
その人物の内面や真意を知っておかないといざという時に危ないという面もあり・・・。
そう考えるのならば?
上の人物鑑定の基準というのは、
どんだけ素晴らしい人物かということを鑑定するのなら、
どうしたら敵から切り崩せるか、
そしてどういう条件が揃ったらコチラを裏切るか
そういう点を見ているとも言えて、
六韜内に記述があるというわけではありませんが、
舞台設定の殷周戦争では、
殷の首都に近づいたところでどういうわけか殷側から切り崩した集団が次から次へと戦死していく場面があり、
実はアレが周側による粛清ともとれ・・・。

敵の内部で働くスパイにしろ、
切り崩して寝返らせるにしろ、
敵を倒すまで手放してはいけない、
敵に戻らせてはいけない、
というのが大事なところで。

発啓篇1 抜粋3・・・
・・・・・・
その道を行けば、道 致(いた)すべきなり。
その門に従えば、門 入るべきなり。
その礼を立つれば、礼 成(な)すべきなり。
その強(きょう)を争えば、強 勝(あ)ぐべきなり。
・・・・・・
ひとたび目的を掲げれば達成しなくてはならず、
協力者を手に入れれば親密にし続けなくてはならず、
臣下の礼を取らせれば相応の処遇で返さねばならず、
強さで争う相手がいれば、その相手を吸収しないといけない。

人材を集めることは出来ても維持し続けることは極めて難しい、
というのは文師篇でもあった言葉で。
引き止め続けるために相応の支払いを続けないといけず、
そのために手に入れた天下を切り分けて与えるぐらいの覚悟は必要となる。
それは賞罰篇でも同じように語られ、
さらには、
上の文の「道」の意味、
コチラは文師篇の「道」から少しひねった感じに解釈しまして、
掲げた目標があってそれに進む以上はそれを達成しないといけないと勝手に解釈しました。
ひとたび大目的のために集めたのだから、
多かれ少なかれ集めた人材はそのために頑張るわけで、
信頼できる人間ほど目的の細かいところまで共有せざるを得なくなる。
それがダメになったり中止になった時には、
いかに良い支払を受けていてもモチベが下がり、
統帥参考にあったような無駄働き感を与えてしまい、
さらには目的達成の折にはもっとデカイ利益を得ると思っているために、
いったいどんな崩壊を見せるか分からない・・・。

天殃人殃を見てひとたび動いたら、
もう後戻りはできない、
それが六韜の中の戦い・・・。

しばらく発啓篇が続きます。


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