六韜 二巡目 『 目指すは簒奪併呑』 第15回 「文韜15、上賢篇4、トップはかくあるべし」


六韜の二巡目、始めました。
まずは最初の文韜の最初から。

『六韜』二巡目
15回
文韜15 上賢篇4


上賢篇の続きをやっております。
出世させずに排除すべき人材の特徴としての六賊と、
その事態をほっといたら王様自身にも危険が及ぶぞという七害

上賢篇はさらにその続きがあり、
今回はソチラを、
内容としましては、
トップは人材をどう見るべきか、
ということと、
どういう姿勢でいるべきかということ。

上賢篇4 抜粋1・・・
・・・・・・
民、力を尽くさざるは、吾(わ)が民に非(あら)ざるなり。
(し)、誠信(せいしん)ならざるは、吾(わ)が士に非ざるなり。
(しん)、忠諫(ちゅうかん)ならざるは、吾(わ)が臣に非ざるなり。
(り)、平潔(へいけつ)にして人愛せざるは、吾(わ)が吏(り)に非ざるなり。
・・・・・・
生業に全力を尽くさない民は、王の民ではない。
誠実で信頼できない人材は、王にとっての人材ではない。
登用した人材でも王への忠誠心と王のための忠告を出来ない者は、王の臣下ではない。
公平で自身も清廉潔白ではなく民衆を痛めつけるような役人は、王の役人ではない。

民衆、人材、登用した人材としての臣下、王の意向を実行する役人。
どれも六韜内の国には重要な存在。
しかし、
存在しているから重要なのではなく、
あくまで王にとり利益となるには条件がある。
王にとっての利益とならないならばそれらの人々に価値はない・・・。
だからといって存在してはならないというわけではなく、
王様は利益にならない奴まで価値ありと思って近づこうとするんじゃねえ近づけるんじゃねえ、
というのが、
これまでの六賊と七害のお話で。
言ってしまえば、
いかに有用な存在に見えても、
王に利益とならないこともあるからむやみに大事にしようとすんな、
害になることだってあるんだぜ。
ということになり、
王じゃなくてもこういう人間は社会にはいっぱいだろうなあ。

役人たる「吏」について、
清廉潔白で人民を愛す、
というように条件がさりげなく二つあるわけですが、
もしも六韜の成立を漢王朝末期ととるなら、
漢王朝前期に目立った存在、
清廉潔白で私益を肥やしたわけでもなく法にのっとって常に行動しながら、
全くもって容赦なく人民や貴族や王族を弾圧しまくった「酷吏(こくり)」がチラチラするとされ、
法に忠実で私欲がなくて忠誠心にあふれていてもそれだけでは民衆との接点となる役人は務まらないということで。
この辺りは、
人情のない秦の法制度の運用を最も厳しいとして、
そこにいかに人情の修正を加えるかというのが大事となったその後の歴代王朝のように、
中華王政では最後まで避けられないテーマとなり・・・。

上賢篇4 抜粋2・・・
・・・・・・
(しょう)
国を富まし兵を強くし、
万乗(ばんじょう)の主(しゅ)を安(やす)んじ、
群臣(ぐんしん)を正(ただ)し、
名実(めいじつ)を定(さだ)め、
賞罰を明らかにし、
万民を楽しましむる能(あた)わざるは、
(わ)が相(しょう)に非(あら)ざるなり。
・・・・・・
国を富ませ軍を強くし、
王様を常に安心させ、
多くの臣下をまとめ上げてよからぬことをさせないようにし、
人事評価を行い、
賞罰の理由を明らかなものとし、
民衆が生きるに楽しめるように出来ないならば、
王の宰相とは言えない。

富国強兵ってココから来るか。

宰相だけなんかやること多くて厳しくない?
と言いたくなるものの、
上に行けば行くほどに権限が大きくなるんだから、
その分だけ忙しくなおかつ大責があるのは当然とも言えて。

また舞台設定の文王と太公望というキャラを考えるなら、
そんだけのことが出来る人材が文王の下にいるか、
ゆくゆくは太公望自身も要所へ、
あるいは呉起ィさんの如く宰相へ、
なんて思惑があったか、
そんだけのことが出来るのは自分ぐらいだ、
という自身をにおわせるぐらいの物語性を強める効果もあったりで。
ちなみに、
周の宰相となるのは文王の息子にして武王の弟の周公旦で、
殷討滅併合後には太公望は東の山東半島へと左遷され斉を建国し、
同半島の根本には周公旦が王として報じられた魯という国が出来て、
太公望を東の果てに封じ込める動きとなり、
魯と斉の対立は様々な国の思惑が重なって斉の王族が変わっても800年近く戦い続けるということになり・・・。

上賢篇4 抜粋3・・・
・・・・・・
王者の道は、
竜首(りゅうしゅ)の如(ごと)く、
高く居(お)りて遠く望(のぞ)み、
深く視(み)て審(つまびら)かに聴(き)き、
その形を示し、
その情を隠し、
天の高くして極むべからざるが若(ごと)く、
(ふち)の深くして測(はか)るべからざるが若(ごと)し。
・・・・・・
王たるもの、
竜が頭を高くもたげているかのように、
高い所から見下ろすように俯瞰する視点を持ち、
広範囲を見て先のことを見通し、
表面的に見えるものからその深意を見定め、
全てを聞き取り、
王としての姿勢を示し、
なおかつ王の心情は察せられないようにし、
誰にもその真意が分からないようにふるまう。

なんぞスンゴイ高尚なこと言ってる感がありますが、
字面だけの内容としましては?
表面的なものに振り回されないように真相を見抜くだけの高い能力を持て、
ということになるも、
大礼篇の王の目・耳・心の情報機関と合わせて考えると機関をちゃんと用意して使え、
ということになり、
「形を示し」というあたりは、
統帥綱領や統帥参考であったような、
最高指揮官は細かいことを指示したりせずに方向を示し後方を準備する、
ということに近いかなと。

そして、
王の考えを察知されないようにする、
というのは大礼篇にあったことでもあり、
韓非子と同じく六韜で一貫していることで。
感情をあらわにしない、ということが第一歩。
そして、
王様が動く時は見栄えのいいことをやるのがセオリー。

見栄えがいいというのは、
往々にして正義を示す時。

上賢篇4 抜粋4・・・
・・・・・・
(いか)るべくして怒らざれば、
姦臣(かんしん)(すなわ)ち作(おこ)る。
殺すべくして殺さざれば、
大賊(たいぞく)(すなわ)ち発す。
兵勢(へいせい)(おこな)わざれば、
敵国 乃(すなわ)ち強(つよ)し。
・・・・・・
叱責すべき時に叱責しなければ、
ロクデモナイ臣下たちが策動を始める。
処刑すべき時に処刑しておかなれば、
もっと厄介な存在となってしまう。
軍を動かして討伐すべき時に討伐しなかったら、
敵国はどんどん強くなっていくだろう。

守土篇の「刀・斧」と似たようなお話で、
あの時は、
「刀」は官僚機構の自浄能力、
「斧」は軍事行動、
というように解釈しておりました。
どちらも動かす時は必ず成果を獲得しないといけない、
そういしないと王の権威はだだ下がりで、
王位を脅かそうとする存在を調子付かせてしまう・・・。

自浄作用がある、
監視していることを示す、
そして、
やる時はやると示さないと、
人材たる臣下も厄介な王族も好き勝手を始める。
放置し続ければいずれ王自身にも様々な害が及ぶ。
自分は関係ない、
そこまでは俺の責任じゃない、
なんて言い訳は王は使えない。

討つべき時に討たなければ外敵はどんどん強くなりコチラは不利になっていく。
という点については、
マキャベリが君主論内で共和政ローマを称賛する時に、
古代ローマ人は戦いを先延ばしにすることは敵の利益だと認識していた云々という言葉があったりで。

ようやく上賢篇は終わります。
次回は次の篇で。


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